四代歌川豊国(二代歌川国貞)
文政6年(1823)生、明治13年(1880)没
歌川国貞の門人。号は二代国貞時代には一寿斎、梅蝶楼、宝来舎といい、四代目豊国になってからは香蝶楼、一陽斎、宝来舎を使用した。
天保7年(1836)国貞(三代目豊国)に入門し、嘉永3年(1850年)に三代目豊国の長女の婿となって「国政」の名を継ぎ二代目歌川国政を称した。
嘉永5年(1852年)30歳の時には「国政改二世国貞」と落款している。
元治元年(1864年)に三代目豊国が没し、その後明治3年(1870年)頃に「四代豊国」を名乗った。
国貞落款の時代、幕末から明治初期にかけては源氏絵が殆どであったが、芝居絵も描いたり合作「御上洛東海道」にも参加したりしている。蒸気船や眼鏡橋などといった作品も手がけた。主として役者絵、美人画、風俗画を描いた。
歌川国貞の門人。号は二代国貞時代には一寿斎、梅蝶楼、宝来舎といい、四代目豊国になってからは香蝶楼、一陽斎、宝来舎を使用した。
天保7年(1836)国貞(三代目豊国)に入門し、嘉永3年(1850年)に三代目豊国の長女の婿となって「国政」の名を継ぎ二代目歌川国政を称した。
嘉永5年(1852年)30歳の時には「国政改二世国貞」と落款している。
元治元年(1864年)に三代目豊国が没し、その後明治3年(1870年)頃に「四代豊国」を名乗った。
国貞落款の時代、幕末から明治初期にかけては源氏絵が殆どであったが、芝居絵も描いたり合作「御上洛東海道」にも参加したりしている。蒸気船や眼鏡橋などといった作品も手がけた。主として役者絵、美人画、風俗画を描いた。
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