浮世絵と錦絵

浮世絵・錦絵とは

江戸時代初期、町人文化を代表するものとして、文芸の世界では浮世草子、芸能の分野では浄瑠璃・歌舞伎、そして絵画の世界では浮世絵をあげることができる。
浮世絵の源流は、室町末期以来の風俗画にある。
戦国時代から安土桃山時代にかけて現実の人間生活の世相が興味ある題材として取り上げられ、また武将や豪商たちの好みを反映して、洛中洛外図など集団的な民衆生活を題材としたものが作成された。
その後、菱川師宣らの、人間個人についての深い観察に根ざした浮世絵へと変遷していく。
そして1枚限りの肉筆の浮世絵から、一般大衆の増大する需要に応えるべく、大量生産できる木版画の浮世絵へと発展する。
18世紀後半、江戸で作られるようになった多色刷りの浮世絵版画が、その美しさから錦絵と呼ばれるようになった。
錦絵の絵師としては、1765年ごろ活躍した、鈴木春信が創始者とされる。
そして19世紀前半にかけて、数多くの優れた絵師が輩出され、彫師・摺師の技術の飛躍的な向上と相まって錦絵の全盛期をもたらした。
喜多川歌麿、東洲斎写楽、鳥居清長らが美人画・役者絵などに名声を競い合い、歌川豊国、葛飾北斎らが人気絵師として台頭した。
江戸で評判の水茶屋の美女、吉原の高名な太夫、好評を博した歌舞伎の舞台面、人気役者の容姿などが、題材として絵師によって描かれ、錦絵となった。
江戸の町人は、美女の錦絵を眺めながら話の花を咲かせ、人気役者の絵を愉しんだ。
錦絵の版元は、時には歌舞伎の公演の前に絵を発行し、コマーシャルがわりに使うこともあったという。
また、江戸時代は、種々の制約はあったにせよ、参詣やお遍路などの名目で、民衆の間でも旅行を楽しむものが多くなった。
これらの人々が、江戸観光の土産に錦絵を買って帰ることもあったようである。
幕末期には安藤広重および、全盛期を迎えた歌川派の、国貞(三代豊国)、国芳などが活躍していた。
錦絵の題材は、一般民衆の日常生活がその主なものであり、美人画や役者絵などの人物画や風景画などの他にも、当時の事件や歴史上のイベントを表したものなどもあり、今で言う新聞や雑誌、インターネットニュースやSNSのような役割を担ってもいた。

 

明治期の錦絵

明治期には維新当初、文明開化・殖産興業などの近代化政策の結果として、汽車・汽船・鉄道馬車・洋風建築、また鹿鳴館時代の夜会服美人などが出現し、全てが民衆の好奇心の対象となり錦絵の格好の題材とされた。
そして東京と往来する地方の人々が激増し、土産としてこれらの錦絵を地方に持ち帰った。いわば絵葉書である。
また、西南戦争のような大事件が起これば、錦絵がニュース速報的な役割を果たしたのである。
さらに明治の錦絵の著しい特色の一つは、神話・伝承をはじめとした日本の歴史上の英雄偉人を題材とするものが多く発行されたことである。
これは政府の国家主義的教育振興策の結果でもあったが、日清戦争から日露戦争にかけて、錦絵の最後の残照の時期を迎えた。
ニュース写真の未発達のためでもあるが、国家主義的傾向の高まりの結果でもあった。明治期の錦絵の特徴として、江戸期と比べて赤色など色彩が強めであることもある。
やはり西欧諸国に追いつくべく意気軒昂で希望にも燃えていた明治期の世相を反映しているとも言えよう。

(引用)1891年刊行、時野谷勝大阪大学名誉教授による解説より引用箇所あり